若い人に仕事の進み具合を聞く。または体調を気遣う。するとこんな返事がくる。「はい、全然大丈夫です」。全然は打ち消しに使う。その言い方は「間違い」だ、と怒るのは早計らしい。少し古い辞典によれば昔は肯定文の中でも使われていたようだ。(略)
テレビでは若いタレントが母は、祖父は、ではなく「私のお母さんは」「俺(おれ)のおじいちゃんは」などと語っている。違和感を覚える向きもあろうが、昨今の殺伐とした事件を思うと、家族の親密さがほほえましくもある。犬に食事を、花に水を「上げる」人はもう珍しくない。命は平等との思いが浸透したためとみるのはうがちすぎか。
筆者は言葉は生き物であり、乱れと進化は紙一重だと言っておられます。
子どもがまだ小さかった頃、公園で子どもを遊ばせながら、近所の主婦たちとよくおしゃべりをしていました。
そんな時、「○○ちゃんにおやつをあげる」といった言い方をよく耳にしました。
家庭内でそういった物の言い方をするのならまだしも、外では「やる」と言ってほしいと心の中で思っていました。
「おやつをやる」は乱暴な印象を与えるからあえて使わなかったのかもしれませんが、何となく違和感を覚えました。
「お花に水をあげる」と言うと素敵な水差しで事を行い、「花にみずをやる」と言うとブリキのじょうろでざぁざぁ水をかけるといったイメージが強いかもしれません。
前者は、優しく声をかけながら水をあげ、後者は「さっさとお飲み」といった感があるかもしれません。
「子どもにおやつをやり、ペットにエサをやり、花の水やりをすませてようやくほっと一息ついたところです。」なんて言ったら乱暴なイメージになるのかしら。
日本語の使い方って難しいものですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿